昭和48年05月17日 朝の御理解



 御理解 第69節
 「信心は見やすいものじゃがみな氏子からむずかしゅうする。三年五年の信心ではまだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、我ながら喜んでわが心をまつれ。日は年月の始めじゃによって、その日その日のおかげを受けていけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」

 三年五年の信心ではまだ迷いやすいと。と言う事は三年五年という年月と言う事だけではない。10年たっとっても、20年たっとってもやっぱり迷う者は迷うのです。まだ三年しかしとらん、五年しか信心をしとらんというても、確固たるものを持っておる人もあるのですから。問題は迷いやすいと言う事。信心には迷わんですむほどしの・・・、だけではない。喜んでわが心をまつれれる程しのおかげを頂かなければならないです。信心は見やすいものじゃが氏子から難しゅうすると。
 決して難しいものではない。こうしてはならん、ああしてはならんとは決してない。お道の信心の例えば厳しい掟と言った様なものはない。もうどの様な事の中からでも、有り難いなあと言う心の頂けれる信心である。昨日日田支部の、お祭りを奉仕させて頂いた。もう本当に、福岡の秋永先生たちが前の晩から、御用をしておられましたから、もうそれはなんというのでしょうか。本当にまあきちんとした事です。
 ほんとにあのわざわざ、お広前本当の教祖のお広前と言ったほうが、適切なくらいに立派なご神前であり、あのお広前でお祭りが奉仕されました。そして私があちらへ行ってすぐ頂きました事は、ご神前でお祭りのご祈念をさせて貰う時に頂いた事は、もう見事なダイヤの指輪でした。ほんとにダイヤの光にもまあ通ずるような、似たような意味合いのお祭りでしたね。ご参拝の方にもそれを感じられただろうと思うんです。
 そりゃあもうとてもとても大変な、まあ言うならばあれがご信者さんの家でのお祭りだろうかと思われる位に、もう全ての事が、思い切った事がすっきりと出来ておると言った様なお祭りでした。所が私がその、心に拝ましてもらうそのダイヤの指輪は、成程ダイヤは燦然と輝くほどしのですけれども。指輪のこの指輪のほうがね、「あら、これはほんとう言うたら、プラチナがいちばんふさわしいんだろうけれども、これはプラチナではないなあ、これはサンプラチナだな。」と思う様な所であった。
 勿論指輪と言う事は、輪ですからこの信心は和の心を求めて、言うなら和賀心を求めて。どの様な場合であっても和賀心であれよと言うのがお道の信心。和らぎ喜ぶ心と。そこにこれからの日田支部の信心がかけられる、いや私共信心の稽古をさせて頂く者の信心にかけられるのは、この和賀心、和の心というものが限りなく本当なものになって行く事にあるのですね。
 ですからそういう稽古をさせて頂くんですから、どう言う様な場合であっても、どう言う様な事であっても、例えば迷いが起こってはならないのである。ここで信心はみやすいものじゃがとおっしゃるが、昨日ご直会を頂いて、ちょっと頂き過ぎてから横にならせて頂いとりました。皆が帰ってしもうてあと先生方が五、六人残っておりました。おかげで気分もすっきりしたら、昨日から日田の何と言うんですか、船が出てるんです屋形船が。ですから船の上で一献差し上げたいとこう言う事です。
 ですからおかげを頂いて、丁度十名あまりですかね、内々の方も一緒におかげを頂いておられる。他の方が全然お酒頂いとるに芸子さんがはいる、女中さんが入るするもんですから、ついつい私に何時も集中攻撃なんです。私が少し一杯頂くと、にやがるほうですから、がぶがぶ頂いて、もう全然おぼえん・・・・。今朝恐らく朝方じゃなかったかと思うんです。ご承知のように少し目が腫れとるような状態。
 それでもどうでしょうか、私の今日のご祈念ならご祈念でも、それこそ一分一厘もまちがいがないなあという感じでしたでしょう。ね、ですからね信心とはね。そげん飲んだ上に飲んじゃならんぞとか。そりゃ勿論日頃何時も無茶苦茶してはいけないのですけれどもです。そのお祭りのあとに、あれだけのご直会を頂いて、なら私はそこに横になって休ませて貰って、足揉んで貰ってそのまま眠ってしまっている。信心させて貰って、そげな贅沢な事はしちゃならんと言う事はないのです。
 「さあ今から、船を浮かべて船の上で一杯差し上げましょう。」「いいや、信心しよるけんそげな事は勿体ないけんできん。」と言う事じゃないのです。それこそどんな事でも出来る。いいのです。問題は所謂「御の字をつける」勿体ない事じゃなあと言う、「御舟遊び」と言う事になればいいのです。ね、只の舟遊びじゃいけません。けれども神様から賜わったもの、恵まれたものとしておかげを頂くなら有り難いです。
 まあ尾篭な話ですけれども、何時間という船の上ですから、やはりその川の上でおしっこもせなきゃなりません。私は感心しました。私はその何回も行かなきゃならんのですから、船の上から船頭さんたちがちょっとこうつかまえてやってくれるのですよ。中々風情のあるもんですよ。ね、そしたらはたから文男先生がコップにお神酒をもってきて、じゃっとこう。所謂水神様にという意味でしょうかねえ、清めてくれます。私はもう本当に有り難いと思いました。
 私が酔っぱらってどういうお粗末ご無礼ができよっても、そう言う様な心掛けがねえ。有り難いでしょうが。と言う様にですね。信心しておればね「信心はみやすいものじゃが」とおっしゃるが、氏子から難しゅうする。信心しよるなら「こげんもしちゃできん、あげんも言うちゃできん」と言う事は決してないです。そういう中にまあ昨日から今日におかげを頂きましたが、ちょうど前の晩夜の最後のテレビで、明日は九州地区は全部雨だと言ってましたですね。
 ですからお天候の事もお願いせねばなりませんから、こちらへ出てまいりましてまたご祈念させて貰いよりましたら、「サンドイッチ」と言う事を頂いた。サンドイッチと言うのは、中にはさんでと言う意味なんですよ。ははあ明日はおしめりはあるけれども、大祭の時だけは、私が出かける時だけは、お湿りがないんだなあ。ちょうどいい具合にサンドイッチして下さるんだなあと思うて、あちらで参りましてから、すぐお食事を頂きましたから、その時に皆さんに話した事でした。
 その時にはまだお湿りがどんどんあっておりました。私共が行く車の中ではもう、言わばどしゃ降りの雨でした。お食事の時にはそうでした。それから愈々三時からのお祭りですから、もう三時かかったらお天気がすっきりとあがってしまって、もう小雨ひとつ降っていませんでした。あちらは住宅のほうから、お広前のほうへ少しばかり歩いて行かなければなりません。ですからお装束をつけてお湿りがあったんじゃあいけません。もうそれこそお祭りがすんでお説教を終わらせて頂いて。
 こちらの住宅に帰らせて頂きましたら、小雨がぽつぽつと降り出しました。なるほどサンドイッチでしょうが。ですからそういうおかげの中にです。そういうおかげの中に、日々をお繰り合わせを頂きながら、生活ができるというのが、信心させて頂く者のおかげなんですけれども、それを私共がよう頂き止めないで、さっきからもうちょっと天気のよかったけれどもいよいよこれから降っちゃあならんと言うときに降る。と言った様な事になってしまうのですよ。
 私は今朝、ご神前に出らせて頂いたら、お湿りがあっておる。少し頭がもうろうとしてますもんですからね、あら本当に私はお湿りがそこに見ておるような実感で感じるご神眼でした。ちょうど昔は道がこうアスファルトじゃないですからね昔は。道にこう窪みができるでしょう。そのお湿りの後はこう水溜りができるでしょう。その水溜りにね。雨のしずくがぽつんと落ちた所。そしてもうその波紋がすうっとこう、水溜りの中に雨のしずくが落ちて水の波紋ができる所を頂いた。もうなんとも言えぬ風情なんです。
 私にもし歌心があったら、もうすぐさま歌になるでしょう。もし俳句ができたら、すぐひとつの俳句が詠まれたに違いありませんと言う様な、味わいのある情景をご神眼にいただいたんです。ね、その事がどう言う様な事か解らなかったけれども、今日ここでご理解をいただきますと、成程六十九節であり・・・・ね。まだ三年五年の信心ではまだ迷いやすいとこういう、この迷いやすいと言う事に感じたんです。雨と言やあもうあっちは雨じゃろうと言う時には、よくない時と言った様な時に使うでしょう。
 お天気も有り難い、雨もまた有り難い。生まれる事が目出度いなら、またお国替えもまた有り難いのですよ。そういう中にあってでもです、例えばそういうひとつの信心の雰囲気と言うか、そういう情操というものが信心によって鍛われて、もし歌心があるならひとつの歌にでもなるだろうと思われるように、信心させて頂く者はどういう中にあっても、降っても照ってもその中からです、なんとも言えぬ味わいが出てくるほどしのおかげを頂いたら迷わんですむと。
 迷うときにはみんなが自分の思う様にならん時に迷うんです。こがしこ神さまにお願いしよって、是だけ一生懸命熱心に参りよるとにと言うのでしょうが。いう信心は見やすいものじゃがという見やすいほどしの信心をまだ身につけていないからです。自動車の運転がむずかしい。それは私にとっては難しい。全然運転の稽古をしないから。さあ自動車を動かせったって難しい。けれども稽古して免許のひとつも取った人ならば、はあとても自動車の運転は難しいですよとは言わんでしょうが。
 言うなら女子供でも出来る事でしょうが。運転技術というものを覚えたら。楽々と運転。そんなものなんです。「自動車の運転はみやすいものじゃが」と言う事になるのです。それを稽古をしないから、難しいものにしてしまうのです。信心の稽古も所謂稽古をしていけば、みやすいものなんです。みやすいと言うだけではない、降っても照ってもそこのなかからなんとも言えん、信心させて頂いとかなければいただけない味わい、情操。そう言う、雰囲気を醸せるほどしの、私は信心を頂きたいと思う。
 そう言う信心の心を「我ながら喜んでわが心をまつれ」というのは、そう言う事じゃないだろうか。信心させていただいとって、ほんとに我とわが心が拝めるほどしの事。又その心をまつれとも仰っておられる。それををまつれるほどしの、私は信心というものはですね。ひとつ信心は難しいものじゃとせずに、みやすいものじゃと言えれる所まで、信心を高めなければならない。
 例えば雨が降っても、ああしるしいと言うなかにあってもです。レインコートを着て長靴はいてはまって雨の舗道を、言うならば歩いてご覧なさい。雨もまた楽しいなあと思うでしょうが。ね、けれどもですね、傘も持たなければ言うならば雨合羽もない。ぬれしぼたれていかんならんから、ああ雨はしるしいと言う事になるのですよ。信心という言うなら、雨合羽であり傘を持っておるならばです、どんなに例えば雨が降っても、雨の中もまた、楽しい事になるんです。そういう信心をお互い身に着けていきたいと思うね。
   どうぞ。